思うままにつれづれ書くblog

その時々に感じたことを正直に、思うままにつれづれを書いています。

ライフレッスン その3

感想つづきです。

以下引用

 どんな状況であれ、最悪の事態に直面した時に、
人間は成長する。
状況が最悪になった時こそ、最良のものを見出す
ことができる。そのレッスンの本当の意味が
わかったとき、幸福で意味のある人生も見出す
ことができるようになる。完ぺきではないが
真正の人生がみつかり、十分な生をまっとうする
ことができる。

 最初に頭に浮かび、しかもいちばん難解な疑問
は、おそらくつぎのようなものだろう。
そうしたレッスンを学ぼうとしているのは、
一体だれなのか?
そもそもわたしとはだれなのか?

 人生の途上で、われわれはくりかえし自分に
この疑問を投げかける。誕生と死とのあいだに
人生と呼ばれる経験が存在していることだけは
確実にわかっている。
だが わたしとはその経験のことなのか、
それとも経験しているもののことなのか?
わたしとはこのからだのことなのか?
わたしとはこの欠点のことなのか?
(中略)
わたしは母親?銀行家?店員?
(中略)

 そのいずれも「わたし」ではない。
わたしにはまちがいなく欠点があるが、欠点は
わたしではない。病気にもなるが、病気や診断は
わたしではない。わたしは大富豪かもしれないが
信用の格付けがわたしではない。
わたしの履歴書も、居住区も、成績も、からだも、
役割も、称号も、けっしてわたしではない。
それらはすべて事情によって変化するものだから
わたしではありえない。
わたしのなかには 名状しがたい、なにか定常的な
ものがあり、それは消え失せることも 加齢や
病気や環境によって変わることもない。
うまれながらにそなわっていて、それと共に生き、
ともに死んでいく、正真正銘の自分というものがある。

以上引用おわり。

そもそもわたしとは何なのかとか
そういう哲学的?なことは わたしはあまり考えません。

みとめられたーい!とか 人気が欲しい!と
思ってたときは 
もっと今の自分とは違うなにか「本当の自分」
みたいなものがいるんじゃないかと思ってたけど
今は 本当の自分 というのにも関心がうすれました。
(多分違う意味で関心を持ってたからなんだと思います)

ただ、ここに書いてあった
「事情によって変化しない 定常的なもの」
っていうのは 確かにあると感じます。

肩書がかわっても 役割が変わっても
なにか こう「こんな感じよね!」っていう自分
というのが 誰しもあるのだと思います。

そこを 活かすとか活かさない とかの前に
なんとなくそういう定常的な自分というものを
捉えていると

日々過ごしている毎日が
そして なにかを選択する時などにも
こう違和感の少ないものが選べるというか
しっくりくるものが備わるのではないかと思います。

それが 単純な「好き」「嫌い」であったり
ぴんとくるようなお知らせであったり
小さなささやきであったり
しっくり感であったり。

わたしは はっきりとそういう定常的な自分を
わかってる っていうわけじゃないのですが
ほわっとは捉えていて(絵とかイメージ的な感じ)
なんか選んだり 過ごしたりするときに
最近はそれと共にある といった感じです。

まだまだ 自分がしらない自分がいるのかもですが。

生きやすくなったような気がします。