思うままにつれづれ書くblog

背伸びせずかっこつけず思うままにつれづれをぶっちゃけていくブログです。

分かりあう 分かってほしい などなど。

昔は わたしのことを分かってほしい! 認めてほしい!という気持ちが

強かったんだと思うんだけど

最近は 年とともに?そういうのも 少なくなってはきていて(なくなるとかはないと思うけど)

そもそも 分からなくて当たり前じゃね?みたいな気持ちがどっかにあります。
(やさぐれてはないはずよ^^;)

夫婦も 長く一緒にいるから 大体のことは分かってるつもりではあるけれど
それは あくまで「つもり」なんだなあと 思ったりします。

じゃあ だからといって

「分かりあうために」 とか 「分かりあう」ということをゴールにしてしまうと
それも なんだか違うかなあ~と 思うこのごろです。

つきあってるころや結婚してしばらくは
夫と話しをする というときは 私の考えを分かってほしい 共感してほしい
という気持ちが強かったけど

あ、今書いてて気づいた
わかってほしいって 「共感してほしい」ってこととほぼほぼイコールに近いケースが多いのかもね。

よく 夫婦で「どっちが大変か」みたいな合戦が始まることがあるけれど
大変さの質も違えば 男女の違いもあったりして 
気持ちは分かるような気もするけど(自分もあったし)なんかなあ・・と正直思ったりするのですが、

それって 「私の方が(あるいは 「わたしの方も」 )大変だということを相手に認めさせたい」だったり
「大変だねって共感してほしい」ということなのかもなあ・・・。

お互いにそう思ってるとしたら どこまでいっても平行線。

じゃあ 平行線はよくないのか 歩み寄りや忍耐が必要なのか
となると それもまた なんか しっくりこないしなあ・・。

なんかね、最近ちょっと思ったのは

人はそれぞれ 見るものを見たいように見てるのかなってこと。
それが 「世界観」って言葉で表されるのかもしれない。

見るものを見たいように見るから
人(あるいは出来事や状況)に何かを期待しては 勝手にがっかりして 「そんな人だとは思わなかった」
とかいうのよ。(わたしも含め)
じゃあ どんな人だと思ってたのさって話で。

そこで はっとするよね。 ああ こういう人だと思いたかったのかなって。
自分の勝手なイメージや期待だったんだなって。

でもそれって ある程度は起こることで
それが よくないとか やめようとか言うのも違うかなと。

本当の意味で「分かった!」とはならなくても
ああ この人が見てるのはこんな感じなのかな?ってことが 垣間見えて
そこで 自分はこう見てるんだなってことが あらためて自分で認識できて

それだけでも 違ってくるんじゃないのかなあと。
平行線なようで 平行線じゃないというか。

分からないこともそんなに悪くはないのかなあ
それでもいいなと思える何かがあるのではないのかなあと思うこのごろです。

「どうせわかってもらえない」から 「伝えない」のではなく
「わかってもらえなくても」 「伝えること」の大事さというか。
やっぱり だんまりをきめこんで 閉ざしてしまうのと
扉は 開けといて 伝える準備ができていることや 実際に伝えることとは

全く違ってくると思う。


分からないながらも、心地よく一緒にいられる、とか、つながっていられる、ということはあるしね(^^)


なにを言ってるのかわけわからん文章かもしれませんが^^;
最近の正直な感覚はそんな感じです。